ハチ公は忠犬?


ハチ公の話が好きな俺。
感動して涙も流れるくらい好き。
しかし、同時にモウ一人の俺が耳元で意地悪く囁くのさ。
「アンナにご主人が可愛がってたワンちゃんを野良にする神経がワカランね。」
「一体全体、話が出来すぎているよ。」
数冊の本とネットを使って「ハチ公」を調べてみた。
で、一つの結論にたどりつく。
ハチ公を意地悪く見れば、こういうことも言えるかもしれない。
内容は大体以下のような感じ。

今でこそ街で野良犬を見かけることはほとんどないだろうけどね、
当時の日本では野良犬なんてワンサカいたのさ。
飼い犬が家庭の事情で捨てられちゃう。
そんなことは普通のことだったのさ。
ハチ公もソノ中の一匹なの。
色々あって捨てられちゃったハチ公は行く場所がない。
しょうがないから、勝手知ったる渋谷駅付近をウロウロ。
そこで、屋台やら食べ物屋さんからオコボレをもらう。
もしかしたら、先生の存命のうちから駅で待ってる間、
通行人からオコボレを貰ってたのかもしれない。
ソノ味をハチ公は知っていたと考えるのが自然だわね。
夕時、ハチ公は食い物目当てに決まった時間に渋谷駅に現れた。
「夕時」、それは渋谷駅が通勤客で賑う時間。
そりゃぁ先生の帰宅時間とも自然重なるよね。
ハチ公は多分、先生を待ってはいない。
ハチ公が待っていたのはご飯だよ。
その普通の野良犬の姿に人間が美談を投影した。
ハチ公を勝手に忠犬にしたのさ。
ハチ公にしてみれば「忠犬」なんて大げさな冠をかぶせられて
かえって迷惑だったのかもしれないよ。
とにかく、あの美談は人の手によって作られた話なんだよ。

うん。
この結論は一つの考え方ではあるけれど、
自然な発想だと思うのさ。
説得力を認めざるをえんわね。
しかしだな、
例え、作られた話であっても、
いーんじゃねーか?
まるで鬼の首でも取ったかのようにそんなコトを声高に主張するよりも、
美談を楽しめばイーじゃんよ。
だって、ハチ公は今、先生と天国で一緒なんだろ?
幸せなハチ公に何をケチつける必要があるものか。
ハチ公は「忠犬」でイーんじゃね?

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